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by senshu-scop

2/13 『福翁自伝』勉強会議事録

参加者は乙幡、西山、中橋、河野(途中参加)の4名である。

場所は喫茶店さぼうる、時間は約一時間半である。


1、問題提起

論点1、中橋→福沢のいう「一身独立」とは何か、

ここで、乙幡により「それはまずもって身体の独立であろう」「病気にも依存せず、医者にも依存せず、そういう状態を福沢は独立と考えたのであろう」という意見が出された。

これに対して中橋は、「ちょいと違う」と述べたが、まだ問題提起の段であるので、一度おいとくこととした。

論点2、乙幡→285頁において「世間に圧制政府というのがあるが、これは政府が圧制するのではなく、人民が圧制を招くのだ」という部分を引用し、相手の出方をして、自己の行動の基準のすべてとするような態度は、既成事実にただ屈伏し、「成るようにしか成らん」として、どんな悪政にもめをつぶることである。
 では、政治社会にたいして目をつぶらず、自発的に政治社会に参与し、その行動の結果もうけ入れることのできるような主体性をどのようにしたら人々に持たせることができるだろうか。
 周りの状況、情勢に常に「流されていく」人々、これを政治的無関心層と定義し、
この無関心層を「教育」によって啓蒙していこうと福沢諭吉は追った得たのだろうと思う。
 しかし、そもそも周りの状況に流されやすい人々は存在するのである。それは教育によってどうこうできる問題ではない。教育はあくまで知識を与え、その使用法を教えることを主務のすべきものである。生活に苦労するようになれば、政治社会にさんよしていく態度は生まれる。
 ゆえに主体性は結局のところ教育等で喚起できるものではなく、社会状況の変化に依るのである。 


論点3、西山→94頁を引用し、ただ目的なく勉強するということはどのようなことであろうか、
         目的のない勉強など可能なのか。


以上3点の問題が提起された。

以下議論



中橋、私が思う「独立」は、先に言われたような主体的な責任である。しかし身体の独立というこ    とで考えるとそれは、医者や病気からの独立というより、病気すると精神が弱くなる、ゆえ    に思考も薄弱になり、独立できないということであろう。そもそも責任とはなにか。

乙幡、至極簡単なことで、「自分のケツは自分でふけ」、つまり自己の行動の結果を受け止める    ということだ。

中橋、確かにそうだ。自分のした行動のリスクは自分が負う。そういうことだ。しかしこれは精神    が弱っていてはできない。精神が弱いとリスクにつぶされてしまう。だから、健康じゃない と独立できないのだ。福沢は実学を重視した。これは独立心とつながる。もし哲学や思想    を学んでも迷惑はかけない。だが、実学は行動を伴うということである。だから福沢は      実学を重視したのだ。

西山、それが独立なのか。


中橋、少し説明不足であった。論が飛んでしまったかな。


乙幡、つまり、中橋君は自己の行動の責任を取るということをして独立心とするわけだ。


中橋、そうです。


乙幡、では、主体性について議論しよう。


乙幡、確かに病気になると精神薄弱となる人がいることは確かだろう。しかしこれは意志の問題    だ。身体的な不健康が必ず意志の弱さに通ずるとは考えにくい。


中橋、しかし、病気でいても意志が強いという人でも、もっと大きな病気にかかれば違ってくるだ    ろう。だから、責任を引き受けない可能性があるので健康でいよう、ということだ。そもそも    独立心、自立心と大人が子供に対してしゃべるときに言われるのが、人に頼るな、人に迷    惑かけるな、ということだ。しかし、人は人に頼らなければ、迷惑をかけなければ生きては    いけない。人に頼って生きているということは独立心を持たないで生きていない、というこ    とにはならない。生きる上で人に頼るな、迷惑かけるな、ということでなく。「責任をとる」と    いうことを通して、頼るな、迷惑をかけるな、ということである。


乙幡、自立心、独立心とは自分の行動を選択する際の信念というか、信仰というか、規範、まあ    そういったものを自分の中で納得して、体系づけて、理解した上で内部化するということ     だ。このような過程を経ないで、自己の外部に依存して選択を行う状態を自立心、独立心    がないというのだ。外部から与えられた信念、信仰、規範、法、なんでもいいが、それらう    を内部化して行動していくということが主体性なのである。


中橋、では自分とは何かというと、それは社会の中の自分ということである。つまり自分とは、社    会によって作られているのだ。社会に帰属しているのが自分なのだ。だから、自分とは社    会から離れられないのだ。だから、責任は社会に対しての責任なのだ。


西山、お前のいう社会とは何か。目に見える範囲のsocietyなのか。目に見えない人まで含め    た地域社会なのか。それとも一般的な「日本社会」などという場合の社会なのか。どの範    囲の社会なのか。


中橋、全部だ。というか、「世の中」というべきだろう。世界ともいえる。


乙幡、つまり、この世界一般ということか。自己が認識できる範囲ということか。


西山、まず今の文脈における社会とは何かをはっきりさせておかないと「自己は社会によって作    られる」ということはできないだろう。


中橋、認識できる範囲とか、そういうものではない。いわば宇宙全体だ。たとえば、インドなどで    子供が、日本製のお菓子を買ったら日本にも少なからず影響がある。しかし、人々はそ     れを認識できない。だから認識できる範囲というわけではない。


乙幡、思うに中橋君の中の社会とは、社会の中で自己が作られるという。これは自分を中心と     する経験と環境の総体であろう。それが社会であろう。


西山、そうすると、社会とはsocietyという意味での社会であろう。しかし中橋君の社会は経験     できないところまで含めている。


中橋、自己の認識できないことは世界にたくさんあるだろう経済活動のすべてを人は認識でき     ないのだから。


乙幡、まあそれは認識できないというより理解できないということであろう。


中橋、とにかく社会の中で自己が形成されて行くことはたしかであろう。


西山、というか「一身独立」について話していたのにどうしてこういう話になったのか。


※ここで河野さん合流


中橋、自分とは社会によって作られるのだ。自立とは、こういった社会に対して責任を負うという    ことだ。社会によって自分は作られ、その自分は社会に対して責任を負う。このような循     環があるのだ。だから、少し抽象的になるが社会が悪い方向へ進むことを止める責任が    あるのだ。


西山、それで社会というのは・・・。


中橋、人間の活動ということにしよう。


乙幡、つまり、人間交際ということか。


西山、それはsocietyだろう。


乙幡、そのsocietyとは何か。


西山、societyとは人と人が交わることで形成されるコミュニテイである。まずもって私は        society、地域、国、世界と同心円状に広がる範囲のどこをもって社会とするのか。


※ここで中橋、西山両人の押し問答が始まったので、乙幡が調停に入る。


乙幡、話を元に戻そう。私はそもそも主体性とは自己の経験というものを内部化して初めて生ま    れるものだとした。そこから責任も生まれるとした。そこから中橋君が「社会によって自己    は形成される」として反論めいたものを行った。そして西山君が社会とは何かという話が     あり、今の話となった。中橋君はまだ自分の論を最後まで述べていないようだ。中橋君の    論を聞く中で「社会」という言葉がどのような文脈で使われているかわかるだろう。


西山、自分を形成する社会とはなにかを問うたのだ。


中橋、なぜ、自己は社会に対して責任をもつかといえば、そもそも自分とは無だ。しかし社会と     交わったときに、自分は名前を付けられ、社会によって属性を与えられ、お金を社会から    与えられる。だから社会に対して責任を持つということだ。


乙幡、そこには自分も同意できる。人は生まれた瞬間から、何らかの社会のなかで生きてい      る。生まれた時から人間は完全ではありえないから、経験や環境の変化の中で自己を形    成していく、だから、人間の中には自己が重層的に存在している。家族の中の自己、大     学生としての自己、男としての自己という風に。この自己の一部に社会に対して責任を負    う自己もあるだろう。このような自己ははたしてどのようにして自覚されるだろうか。そし     て、どのような形で責任を果たしていくのだろうか。中橋君が社会といったときに想像する    ものは何か。


中橋、あいまいでわからない。


乙幡、私たちはここまで福沢諭吉の独立という考えから、それは主体性を備えることだと解釈し    て来た。そして、その主体性は社会に対して責任を持つことだという風になった。では、社    会に対して責任をもつとはどういうことかというところまで来た。


中橋、この社会に対して、責任をもつということは、できるだけ社会に関わっていこうとするこ    とだと思う。


西山、今の中橋君の話からすると自分の善いと思うことを通して社会にかかわっていこうとする    ことだ。それは世界レベルなのか、国家レベルなのか、地域レベルなのか。・・・・・まあこ    の問いの意味があるかはわからんが。


中橋、ではおいておこう。


中橋、社会によって自分が作られるのだから、絶対、社会と関わらないといけない。なぜ関わ     なければならないかといったら、そもそもかかわるように出来ている。社会によって自      分は作られているわけである。であるから社会にかかわらないということは無責任という     ことになるのだ。


乙幡、ここでいう社会に関わらない無責任な人というのは、引きこもりのような人々か。


中橋、そうだ、だが彼らのような引きこもりも社会問題となる。ホームレスも一見無責任のように    見えるが、社会の中で問題視されているということは、社会と彼らは関わっているという    ことだ。


西山、つまり、社会に関わっていこうとする意思が福沢諭吉のいう独立ということなのか。


中橋、そうだ。


西山、百姓連中は社会に関わろうとしていないとした。しかし彼らは必然的に社会にかかわっ     ているのだ。だから、独立が必要だとしたのか。


乙幡、しかし、『自伝』の中に出てきた百姓連中はちゃんと挨拶もし、経済活動も行い、年貢も納    めている。関わりというものを単なる「関係」としてみるなら、百姓連中は社会に関わ       っていることになるではないか。


西山、でも、それは社会のなかの関係を円滑に進めるようにしただけだ。そう考えると、すべて     の人が社会とかかわっているし、その意思もある。では福沢諭吉は何に憤っているの      か。


一同沈黙・・・・・・・。


中橋、やはり個人として関わらなければならないということだろう。百姓連中は社会の中の礼      儀としてかかわっているだけで、個人としてはかかわっていない。『自伝』に出てくる百姓    は、福沢の態度の変化に応じて自分の態度を決めている。これは福沢に百姓が依存し     ているということだ。


乙幡、つまり、外部に依存したまま社会に関わっているということか。


中橋、そういうことだ、それでは個人として関わるということにはならない。


乙幡、やはりこれは主体性という問題に集約できる。ではまず、福沢の考える個人像について     考えてみようか。これは外部に依存しないで自分の身によって決定を行う。ある意味行動    を選択し、行動し、その結果を担う主体を個人として定義できるかと思う。


西山、依存しない・・・・では福沢諭吉の依存しないという範囲はどれくらいのものなのか。依存     しない・・・・まったく依存しないということはできないのではないか。


乙幡、社会との関わりを持つという時点で何らかの外部への依存はあるわけだ・・・・。


中橋、いや、そもそも人間は社会に対して依存しているからこそ社会に関わらなければ         ならないということだ。


乙幡、となるとやはり社会にだけ責任をもって、自分に対しては責任を持たなくていいということ    になるのでは。


中橋、社会のイメージとしては、体育の時のピラミッドといっしょである。個人が全体に対して責    任を持たないと崩れてしまう。


乙幡、コミュニタリアニズムに近いね。となると福沢の個人像は、一般的な近代的個人像とは異    なるね。近代的個人像とは自分にかかわる事物の最終的な決定者を自分であると設定     し、この個人は平等であるとした。これに確かに福沢諭吉の個人像は近いように思える     が、個人は社会によって形成されるという考えも見られる。そもそも、一身がなぜ独立し     なければならないかといったら、一国独立するためなのであるから。


中橋、私の意見と違いはないのでは。


乙幡、そのとうりだ。ようは、当時西洋にあった一般的個人像とはことなるということだ。


中橋、ようは、意識の上での平等を言ったのか。


乙幡、そいうことだ。


中橋、自由や平等という考えはフランス革命において確立されたものだ。そのフランスの国旗は    自由、平等、博愛を示している。この博愛が愛国心であることをご存じか。

※補足・・・・中橋君へ・・・・近代的個人像は宗教改革とルネサンス、絶対主義王制などを経て                  確立されたもので、フランス革命によって確立されたと理解するの                  は論の飛躍であろう。


乙幡、まあそうだろうその時の国家は、プロレタリアートを完全に無視した形でブルジュア、貴     族、聖職者という関係でのみの国家であり、この第三階級以上での個人像である。我々    が考える。単なる人と人との結びつきとしての国家ではない。


中橋、なぜプロレタリアートが無視されたかといえば、教育されていなかったからだ。


乙幡、このときブルジュアジーたちが考えたのは、啓蒙されていない、品性のない、自分ことし     か考えないプロレタリアートに政治、国家、公共を任せることはできない。我々のような教    養あるエリートによって政治は行われるべきとしたのである。これをプロレタリアートは黙    認し、マルクスは怒ったわけであるが・・・・・まあ別の話だ。


西山、話がそれてしまっているのでまず福沢のいう「独立」とは何かを考えて骨組みを作り、そ     れを基礎にして各自意見を言い合えばいいのでは。


乙幡、では今まで中橋君と私とで話してきたから、西山君は福沢の「独立」についていかなるビ     ジョンを持っているのか。


西山、ではまず、福沢諭吉の時代を考えよう。この時代、封建制度が重要な位置を占めていた。封建制度というシステムによる社会を福沢は疑問に思っている。このバックグラウンドを元に、西洋流を習い、人々が主体的に作り出す社会というものを作ろうと思った。この理想を追求するために個人を作りださなきぃけないと思い、教育する。その中で「独立」ということを大事にしたと考えると、各個人により統治された社会というのと変わらないのではないか。


中橋、ようはデモクラシーか


河野、封建制度とデモクラシーは変わらない・・・・・。


西山、でも、どちらの国が強いいかといえば、各個人の特性を生かす各個人により統治された     社会のほうがいい。国の独立として考えると、封建制度と各個人による統治は変わらない    と思う。

中橋、デモクラシーの制度と封建制度とはどの点で変わらないというのか。


西山、国として、システムとして機能するという面で変わらないのだ。強い社会、つまり他国に負    けず劣らずというふうに考えると、まあ各自意見があるでしょう。福沢諭吉の目指したデモ    クラシーというのはあの当時の時代背景からすると、いいと思うが、現代に各個人の独立    を説くことはどうかということだ。


乙幡、各個人全員参加の統治と封建制度は変わらないと言ったが国家と絡めて考えると大きく    違っている。封建政の国家は頂上に王がいて、その下に領主、その下に領民とおり、こ     の三つの関係を国家としてとらえるものだ。それが封建制度である。つまり人と人との関    係のみによって統治が成り立っているのが封建制だ。これに対して、各個人が統治に参    加していくこととなるとこの統治では成り立たなくなり、領域で統治しなければならなくな     る。統治にかかわるメンバーを確定しなければならないのだ。


西山、私の説明不足であった。制度として、不満がない状態でシステムが回っていくという面を    独立の基準として考えるのだ。一国の独立として考えるのだ。各人が争う無政府状態は    独立とは呼べない。ですから、「独立」とは何ぞやというアプローチではなく、人として生き    ていくためのことを「独立」と呼ぶなら。デモクラシーも封建もたいして相違がない。だが、    しかし列強各国が奪い合いをしている。そもそも人は自由を求めない。地域社会コミュニ    テイーが大事なのだ。そうするとシステム自体が回らなくなってしまう。いわゆるデモクラ    シーの導入はチキンゲームへの参加である。


乙幡、確かに、国家システムがしっかり確立されていなければ、個人を確立することもできない    な。

西山、結局、福沢諭吉の意見はチキンゲームに参加しないと大変なことになるぞ、というもので    しかなかったのかなと。


中橋、つまり、外部からの恐怖に打ち勝つために福沢は「独立」を言ったわけか。


西山、これは普遍的ではないかな。


乙幡、確かに恐怖により人はまとまるだろう。この普遍的というのは、「よくある」程度の意味合     いのものだろう。

西山、福沢の言っている「独立」は競争に参加しようというものだ。


中橋、そのために独立せよと・・・・。

西山、だから学問せよ、ともね。このままじゃいかんぞと。


※ここから日清戦争の際の福沢諭吉の態度に話が及ぶ。
 福沢は、日本はペリー来航を契機として開国し、独立した。その日本に西方からロシアという脅威が迫っている。その脅威に対抗して日本の独立を保つためには、未だ華夷秩序の中にある朝鮮を独立させ、主権平等のチキンゲームに組み込むことが日本の独立を守るのだと考えたのだ。
一同、このような共通理解に至った。


乙幡、話を元に戻すと、福沢は国家の独立を起点として、個人の独立を考えた。まずは、国家     システムを個人主義的にしようとしたわけだ。


西山、私が言いたいことは、「独立」というものに価値を見出そうとするのではなく、ただ日本をチ    キンゲームに参加させようとしたのだと、さめてみることだ。


※ここで雑音がひどくなり、聞き取れなくなってしまった。



西山、一国をいかに独立させればいいかという説明書が『自伝』なのだと思う。


中橋、ではシステムに重点をおいて考えてみよう。そして、我々はなぜ勉強するのかを考えて     みよう。

西山、勉強というのは、システムの動かし方を学ぶのだ。結局、教育は労働力の育成だ。それ     以上でもそれ以下でもない。


中橋、そうなると、西山君は発展という価値観はないのか。秩序を維持すれば社会は回るとす     るなら、社会がダメになるということもないのではないか。


西山、別に、システムを維持するというところに価値は置いていない。大事だとも思わない。ただ    システムが回らなくなったら変える必要があるというだけだ。


中橋、それは発展ではないのか。


西山、システムが回っている限り現状維持でいい。回らなくなったら変える必要がある。その意    味で発展ということもあるだろう。


中橋、維持と発展・・・矛盾するのでは。


西山、ただ、当時のことを考えると西洋列強が押し寄せてくる中、日本は管理厳しい状況に置か    れている。その中で既存のシステムを壊すために福沢は「独立」を持ち出したわけだ。


中橋、外部からの圧力によって発展させなきゃならんということか・・・・。外部からの脅威によっ    てでしか発展しないということはないだろう。そもそも人間には向上心があるのだから。


乙幡、西山、そうだろう。


※ここから話は逸れ、学校教育の話となる。


西山、乙幡はともに学校教育は社会に出た時の、労働力の育成が学校の主務であるとした。つまり労働力の再生産だ。西山は欧米の場合、労働力の再生産といってもinnovertionを大事にするからレベルが高いとしていた。乙幡はあくまで大学はエリート教育に徹すべきだとした。これに対し、中橋君は学校教育は再生産でなく成長であるとした。

この後、河野さんに話がふられる。


河野、福沢は慣習や前提、常識を疑い、新しい事物に恐怖しない。ここに思考の柔軟性があ      り、このような心を独立心として喚起させようとしたのでは。


西山、つまり、前提条件を取り払って思考する。このような思考法を植え付けようとしたわけか。


乙幡、西洋の学問ということであろう。神学は神の存在証明から行った、つまり前提を証明しよ    うとしたわけだ。これは福沢のいうところの「数理学」のほうに通ずるだろう。


中橋、しかし、前提条件をすべて取り払うことは無理ではないだろうか。無から出発はできない    のではないか。


西山、確かにそうかもしれない。だが議論の中でその前提条件は薄まって、再構成されていくだ    ろう。

※これ以降、雑談に等しい内容であるので省略。





以上である。

あくまで議事録であるので、筆者の感想は省かせていただく。
ご意見、ご感想がある方も乙幡までお願いします。 

注:内容は編集のため多少加筆修正いたしました。悪しからず。
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by senshu-scop | 2009-02-16 02:19