SCOPの活動予定・活動記録を主に書いていきます。


by senshu-scop

カテゴリ:未分類( 34 )

以下は合宿二日目(3月12日)の内容である。


午前中はM谷さんによる講演会?というより発表?・・・呼称は定まっていないが・・・から始まった。

テーマ・「日本経済復興への提言」

以下序論部分を引用させていただきたく思います。

「昨年2008年は米国でサブプライムローン問題が顕在化した一年だった。リーマンブラザーズ破たん、AIGが公的資金で救済され、住宅抵当を担うファニーメイ、フレディマックが政府管理下に置かれ、金融市場は信用収縮(credit crunch)に陥った。その後信用冷え込みは実体経済に波及し、ビッグ3の救済、景気対策などの論点を引きずる中08年第四半期GDP成長率は年率で6.2%減少した。一方わが国では年率で12・7%の減少が記録されている。実体経済面で、日本が米国以上に痛手を被った背景には、日本の外需依存型の産業構造がある。GDP寄与率で見れば、日本の外需産業は約20%を占める程度だという楽観論もこれまで眼強かった。しかし、今回の統計をみれば、外需向けの大企業の下請け・系列企業が内需産業の主であるため、実質的には日本は外需依存型経済であることが明示されたといえよう。現在、与党では管義偉議員(自民党)などを中心に政府紙幣活用論が熱を帯び、また、アカデミックにおいても若手を中心にインフレターゲッティングを主張する声も根強い。しかしながら金融市場発のゆがみは、必ずしも金融的に解決されるとは限らない。証券市場や消費市場を支えるための過剰な緩和政策は、公的部門への資金流入を殺ぎ、カントリーリスク(国際価値暴落、金利上昇)の呼び水になってしまう懸念がある。よって、金融政策については過剰化を避け、実効性の確認できるものを採用すべきであり、また、非金融的な経済政策をもって実体経済の生産性の向上に寄与していくことが重要である。以上の認識から現在の金融・産業情勢を踏まえ、米国発の信用収縮に始まる低迷した消費・投資マインドを刺激し得る産業構造への転換をいかにして政府として促進できるかを本レジメの議論の主たる目的としたい。」

以上のような「序論」でM谷さんの発表は始まった。

その後の理論展開は最も重要なところではあるが「其の一」で述べたとおり、意図的に省かせていただきます。


産業構造の転換に必要な要素として、M谷さんはイノベーション(商品化に向けたすべての工程での革新)の誘発、金融市場におけるリスクテイクの奨励をあげられました。

そして、外需依存型の産業構造の垂直的な側面、川上から川下までの垂直的で硬直的な構造をいかにして打破していくかということを述べられておられました。

そのために、農林業などの政府介入の高い市場の一部開放、投資減税などを実施し、一産業の垂直状態を水平化(ある程度垂直状態をのこしたまま)することが必要ではないかと提案されていました。

このあと議論に移る予定でありましたが、その後の岡田先生講演会の時間の都合で議論はお預けとなってしまいました。


その後、休憩をはさみ岡田先生による講演会を行いました。



テーマは「格差社会を考える」


「格差社会」は来年度の岡田ゼミのテーマでもあります。


まず、岡田先生は角栄、大平、橋本、小渕と日本政治における論点を確認するところから論をお始めになりました。

そして、格差がなぜNOGOODなのかという問いから岡田先生のbeliefにかかわる論が展開されました。

格差がなぜいけないのか、政治学にとってお金がなくて進学できない人々が層を成したとき、「我々」の問題として認識されます。もちろん、「我々」と「私」の境界は相対的ですし、重なる部分もあります。

何の見識もない、半径10m以上のこと以外のことを判断する材料を何ら持っていない人々が「層」をなしたとき、デモクラシーを支えるsocietyが形成できない。

ゆえに格差はNOGOODなのであります。

ここでデモクラシーを支える四つのbeliefを提出しました。

1、リベラリズム(ルーズベルトの掲げた四つの自由とは区別された伝統的意味の)

2、政治的寛容(利益の上で一致することを認めること)

3、Equality

4、健全なるペシミズム(我々の水準を超える政府は出てこない)

5、インクリメンタリズム


しかし、デモクラシーを支えるsocietysは格差がなければ生まれない。


極度の格差はsocietyすら生み出さないが、格差が完全になくなってしまえば、デモクラシーも成立しない。

デモクラシーはかようなジレンマを内包しているというわけです。


また、「どーせおれたちは報われないよ」「誰もおれの言うことなど聞いてくれないよ」という人々の極度の原子化は他者に対するtrustが危機にひんしている状態であり連帯、societyが失われる状態だとも述べておられました。

このあと、岡田先生との質疑応答に入りましたが、各自が自分の評価、誰と連帯したいのかという「欲望」などを言い合う結果となりました。

なお講演会詳細も「其の一」に従い、手渡しといたします。

その後は飲み会を行いました。その時分には河野さん、阿部さんおふた方にも参加いただき、荒野に花が咲いた思いがいたしました。



以上が二日目の内容であります。


三日目のレビューは福田くんに依頼しております。

今回、春合宿ということで外部の諸先輩や本学の教授を招いて講演会を行いなど、かなり合宿らしい合宿になったと思います。

お忙しい中合宿に参加いただいたM谷さん、H谷さん、S田さん並びに岡田先生には重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。

まだまだ至らない点が多々あるとは思いますが、機会がありましたら今後ともよろしくお願いいたします。

個人的な反省として、段取りをしっかり次回より行おうと思います。それと参加者をもう少し増やせたらな~と思いました。



平成21年3月25日      乙
[PR]
by senshu-scop | 2009-03-25 00:45
平成21年3月11日~13日の三日間に及び合宿を行いました。

場所は参宮橋にあるオリンピックセンターで二泊三日で行いました。

宿泊参加者は乙幡、西山、福田、M谷さんの四名。

一日目参加者は福田(ま)、若杉、高田、H谷さん、S田さん。

二日目参加者は高田であります。


一日目、午後よりオリンピックセンター研修室にて、各自の発表をまず行いました。


1、乙幡・・・テーマ「国民国家概念の揺らぎ--国民概念の再既定」

なんともまぁ大風呂敷を広げたなぁと自分でも思っているところであります。


そもそもなぜ、「国民」概念を再既定しなければならないのか、という根本的な部分を全く詰めておらず、具体的にどの国民国家について言っているのか、「場」を限定しないで議論を進めるというなら、どのような概念を理想として提出するのか、そういった根本的な論点がすべて抜け落ちていたわけです。

それは、発表後の質疑応答、議論の場でも突かれました。

「いったいおまえは何が言いたいのか」という「信念」「思い」といわれるものをいかにして現実社会にリンクさせ、論を組み立てていくかが問われているにもかかわらず、それが出来ていませんでした・・・・ただただ自分の「思い」をむき出しにして発表を行ってしまったと思います。




2、西山・・・西山くんの発表はレジメを配らず、政治家の所信表明演説あるいは政策発表演説のような形式で行われました。

硬直化して、世界的な経済危機に対して迅速な対応ができなくなっている「企業」「労働者」「政府」間の閉塞状態を打破するにはどうしたらいいか、そのために西山くんは北欧モデルの「流動的な労働市場」と「政府によるセーフティーネット」を提案し、この北欧モデルをどのようにして日本に導入するか、を発表いたしました。

政治家の演説のように行ったわけでありますから当然、野次や質問が波のごとく押し寄せてきていました。

特に、W大雄弁会出身のM谷さんとS田さんのヤ野次と質問のすごさにはうならされました。

政治家というのは自分の「夢」を多くの国民に理解させて、「あいつの夢のためならおれはついて行くぞ」という国民をどれほど獲得するかに政治家としての力量があらわれるわけです。

そのためには多くの障壁を乗り越えていかなければなりません。あくまで政治家は国民の信託のもとでしか「力」を発揮することができないのです。

西山くんにとっては誰も骨のある反論をしてこない基礎文などよりは得るものは大きかったのではないかと思います。


あの怒号にも似た反論、質問の中でよく耐え抜いたものだと思います。また、政治家を志す者として大きな契機となったものと思います。


その後、夕食をはさんでH谷さんによる講演会を行いました。

「なんでもいいので講演会を」という形でお忙しい中お呼び立てしてしまった無礼は重ねてお詫び申し上げます。

H谷さんにはご専門の安全保障について講演していただきました。

まず、紛争とは何かというところから説き起こし、紛争を「場」に「主体」「争点」「手段」をかけて表す公式としての理解を披露されました。

そして、紛争の解決を「主体の排除」「争点の解消」「手段の抑制」と位置づけておられました。

その後に提出された、紛争解決の一つの方法として挙げられた「限定戦争放置論」ともいうべき論理には稚拙な観念論や現実だからといって簡単にあきらめる、そういったすべてをよせつけない実務者としての重みというべきものを感じました。

また、RMA(軍事革命)つまり非殺傷兵器の登場や、ミサイル等の精密誘導化、航空機等のステルス化はどのようなことを背景にして進んできているのかということをご説明いただきました。

そして、RMAを一言でいうならば、「戦争の倫理化」を背景とする軍事技術の改編であると位置づけておられました。
「誤爆」という考え方が、湾岸戦争以前にはそれほど問題になっていなかったことにいまされながら
ハッとさせられました。


最後に、これから軍事力の有用性というものはいかにして変化していくかという展望を示されて、講演会は終了いたしました。


一日目はこれにて終了いたしました。


なお、乙幡、及び西山、H谷さんの発表された詳細な内容がわからなくなっていることは意図したことであります。

発表された詳細な内容はバイトや飲み会、お仕事等で忙しいこの時期に、わざわざお時間をさいて参加していただいた方々にのみ共有されるべきものと考えています。

ですので、まったく閲覧自由のネット上にあげることは避けさせていただきます。ですが、参加しようにも参加できなかった方々のことも考慮に入れるべきと考えます。

よって、今回の合宿の詳細な発表内容及び講演会の詳細な内容を知りたいという方にはレジメ、メモ帳等のコピーを手渡すという形をとりたい思います。

よろしくお願いします。



今回のこのブログ上に掲載する内容はあくまで概観「レビュー」であります。
[PR]
by senshu-scop | 2009-03-24 17:55
a0117967_14155463.jpg

(北区役所 ※暗いです)


・中小企業の保護について
(区長の所信と戸枝議員の質問より)
 北区は、中小企業の保護として公園などの臨時修繕費を予算計上したほか、前払金対
象事業や地元業者の工事受注の機会を拡大するなどを行っている。自分の父は不動産業
を営んでいるが、確かに中小企業(建設業)の仕事は減ってきているという。その中で、
大企業にだけ仕事を回すのではなく、区内企業に対して(ほぼ優先的に)仕事を回すと
いうことは大きな成果があると考える。仕事がなければ金は得られず、金が得られなけ
れば消費に回ることもないからである。


・区役所における書類の電子化について
(戸枝議員の質問より)
 エコとよく言われる現在、北区役所では書類の電子化がすすめられていて、区役所全
体での書類の取扱量は順調に下がってきていると議員は述べていた。ここで議員が取り
上げたのが区議会事務局における書類の量である。議員が言うには、事務局からの書類
を積み上げてみると1メートルはあったという。すごい量である。議案にかかわるものは
ともかく、事務的な書類は積極的に電子化していいのではないか、と筆者は考える。も
ちろん、メールやポータルサイトを作るなどして代替策を作っていく必要があるが、年
間に使う紙の量を考えれば経費削減と環境対策が一石二鳥で行える提案なのではないか
と思う。
[PR]
by senshu-scop | 2009-02-27 14:16
a0117967_2332996.jpg

※手前の建物は中野サンプラザ
a0117967_2334715.jpg

(中野区役所)

・「里・まち連携」事業について
(佐伯議員の質問より)
 議員の質問(とそれに対する答弁)のなかで出てきたのが、この「里・まち連携」事業
である。これは、中野区と地方の自治体が協力して、互いの長所を利用したり、互いの
短所を補い合ったりするものである。ちなみに協力する自治体は過去に中野区と交流が
あったところの中から、この事業が実行可能なところが選ばれている。連携を行う具体
的な分野はというと、「農作業などを通して自然と触れ合う機会を作る」、「生産地と
消費地との交流により「食の安全」を担保する」、「自然エネルギーの活用の場を共に
つくる」の3つである。このうち「自然エネルギーの活用の場を共に作る」という点に
ついて、2017年までに茨城県常陸太田市に「区民風車」を3基作るという計画が建てら
れている。ちなみに「区民風車」で発電した電力は電力会社に売るそうで、議員が質問
の中で「温暖化対策に太陽光パネルを宮内に設置してはどうか」という提案に対して区
長は「設置お金がかかるので、(やるとしたら)「区民風車」で発電した電気を売ったお
金をそのたしにしたい」と言っていた。
 筆者は地方都市との交流(ただ交流するのではなく、「内容のある」交流)については
去年新宿区議会で聞いた「新宿区における長野県伊那市との二酸化炭素排出権取引」の
例しか知らなかったので今回また違った形での連携の仕組み(進行中のため軌道に乗るか
どうかは分からないが)を知ることができた。中野区の取り組みは一つの目的の達成で
終わるだけではなく、地方との連携を手段としてさまざまな問題を解決していくという
大きなくくりで事業を作っているところは評価ができる。しかし、あまり広げすぎて個
々の連携事業が薄くならないか、という懸念が筆者には残った。なぜなら、相手はたく
さんの地方都市だろうが、それらの都市と連携するのは中野区ただ1つだからである。
(参考:「新たな地域間交流「里・まち連携」の推進について(案)」中野区HP)
[PR]
by senshu-scop | 2009-02-24 02:35
参加者は菅原光先生、乙幡、西山、中橋である。


場所は専修大学菅原光研究室。

時間は3時間半である。

前回の議事録方式で書き込んだところ、「長すぎて読むに堪えん」というご意見が寄せられたので、方式を改め、議事内容を完全に編集した上でのレビューという形で今後書き込んでいきたいと思う。

さて、今回のテキストは『文明論之概略』で、範囲を第6章までとして、参加者は読んできたわけであるが、全体的に(自分も含めて・・)読み込みが浅く、テキストの内容から離れて価値観論争、原理論争に発展してしまった感がある。(菅原光先生は除く)

菅原光先生にもそれなりに参加していただき、議論の交通整理を行っていただいたが・・・・読み込みが浅いわけであるから、論拠となる個所を的確に指摘することすらできない。惨憺たるものだった。

であるから、3時間半の時間のうち、その大半は雑談(政研の今後や、学問の方法といった大変有意義な雑談ではあった・・・)で終わってしまった。

「菅原先生相談会」「菅原先生と話す会」ということなら大成功であった。


とはいっても『文明論』の議論も少しはしたわけで、そこで話した主な内容を一応書いておく。


「国体について」・・・・・ここでは、福沢が使う「国体」という言葉の定義と明治期当時の一般的な国体の意味、それから明治以前の水戸学や国学に見られる「国体」の定義の相違を確認し、昭和初期の「国体」の意味との相違も確認した。


「社会について」・・・・またまた「society」についての議論である。ここでは、当時の日本、あるいは現代の日本でも使われている「世間」という言葉と「社会」という言葉の違いについて議論した。「世間の目」というものが何であるかわからないのに、規範に近い力を持つのはなぜか。いまだに日本は「個人」と「社会」を確立できていないのではないか。このような問が発せられた。

お忙しい中、菅原先生には会場を用意していただいたばかりでなく、ある程度参加までしていただいた。

にもかかわらず、『文明論』にかんして踏み込んだ議論ができず、その点では大変後悔と自省の念に駆られている。


とはいえ、長い時間菅原先生とお話ができたことは参加者全員にとって大きな収穫であり、有意義な時間であったとも思っている。

reviewとしていい出来なのかはわからないが、reviewの名詞用法の意味には「反省」や「回顧」、「概観」という意味もあるので、まぁ今回は「反省」ということで。



ちなみに次回の勉強会は2月27日一時より神田で行います。

あと、合宿の参加者がいまだに確定していません。自分に「保留」と伝えている方は早急に態度をお示しください。詳しい内容がわからない場合は乙幡までお問い合わせください。




平成21年2月22日       乙
[PR]
by senshu-scop | 2009-02-22 01:24
a0117967_17423965.jpg
a0117967_17424636.jpg

(荒川区役所)


・介護支援ボランティア制度について
(吉田議員の質問より)

 議員の質問の中で取り上げられたのが、「介護支援ボランティア制度」である。この
制度は東京都稲城市で開始され、現在では千代田区、足立区、世田谷区で実施されてい
る。内容はというと、まずボランティア登録した高齢者に介護現場で職員の手伝いをし
てもらう。具体的には話し相手、散歩や館内移動の補助、食堂での配膳・下膳などであ
る。そして、それらの活動をやったことに対して参加した高齢者はポイントを得ること
ができる。そのポイントがたまると、介護保険料から一定額差し引かれるというもので、
年間最大5000円が介護保険料から差し引かれる。介護現場で働く職員は自分たちの仕事
が若干とはいえ軽減され、参加する高齢者もボランティア活動を通して体を動かすこと
により介護予防にもなるという、一石二鳥ともいえるものである(ただ、申請制であると
はいえポイントという報酬が出ると確定している時点でボランティアと呼べるかどうか
問題はあるが)。問題点としては、さきほども述べたが報酬が得られる活動をボランティ
アと呼べるのかということ、それに加えて在宅介護についても制度を適用すべきか、保
険料を減免する以上介護保険自体の運営が可能なのかということがあげられる。制度の
対象範囲拡大については、在宅介護にまで制度を広げた場合に対象者の規模が飛躍的に
上がるということにどう対応していくか、という課題がある。なんにせよ、介護に関わ
る人口が増加している(稲城市では平成21年1月31日時点で294人が登録している)ので、
介護するという目的自体に対してはプラスになっていると言えるのではないか。
(参考:「稲城市介護支援ボランティア制度」稲城市HP)
[PR]
by senshu-scop | 2009-02-20 17:43
a0117967_2255361.jpg

(台東区役所)


・「区立台東病院」…地域医療について
(清水議員の質問より)

 台東区は病院数がそこそこあり、一般的な医療については充足しているものの、
高齢者の慢性期医療については必ずしも足りているとは言えないんだそうだ。そこで、
以前休止していた都立病院の機能を区が受け継いで病院を作ろうという動きの結果
生まれたのが区立台東病院である。この病院は高齢者医療を重視したものになっていて、
老人ホームとの連携も視野に入れている。台東区は地域の病院・診療所との連携を強め、
地域医療(台東区の中だけで一連の医療行為がすべてできる体制と筆者は解釈した)の
体制を整備していくのだそうだ。
(参考資料:新台頭病院等整備計画[台東区HP])


・社会保障の基礎を学校で教える。
(清水議員の質問より)

 「税はなぜ納めなくてはならないのか」「国民の権利と義務」「年金や保険制度の仕
組み」このようなことを小・中学校から教える取り組みを台東区は行っている。筆者は
以前自分の通学している大学のある神保町の駅ホームに(小・中どちらかは記憶が定か
ではないが)「税について」の作文の優秀賞が張り出されていたことを思い出した。あの
時はその文章のうまさと勉強したことの深さに驚いたものである。教科書丸覚えが推奨
されがちな勉強の世界において、人生において一生ついてまわる税や年金などについて
考えさせる機会を与えるということは子どもにとって無駄になることはないと考える。
中学生については公民で税について学ぶことがあるので本格的に現場で動いている人
(議会では社会労務士が挙げられていたが)に話を聞いてみるのもいいのではないか。
[PR]
by senshu-scop | 2009-02-18 22:56
a0117967_21461199.jpg


(杉並区役所)


・「減税自治体構想」…超長期的政策は成功するのか
(島田議員の質問より)

 議員の質問の中に、山田区長による区政改革の一つである「減税自治体構想」が取
り上げられていた。この構想は、松下政経塾出身の山田区長が、師とも言える故・松
下幸之助氏の理想を具現化したものだそうで、毎年一定額を予算の中から積み立てて
運用などをして、いずれは利子で区民税の一部を賄えるようになった暁には、区民税
を減額するという構想である。「区民税が減額」というフレーズはかなり魅力的では
あるが、なにしろ「利子で区民税の一部が賄える状況」を作り上げるには気の遠くな
るような時間がかかるような気がする。「杉並区減税自治体構想研究会の研究報告書」
(杉並区役所HP)を見ても、10年、20年はかかることがうかがえる。その間、この政策
が維持される保証はどこにもない。あるときに一気に使い果たすことが起きるかもし
れないし、そうでなくとも少しずつ調整されていって本来目的から外れることもある
のかもしれない。そう考えると、「次の選挙には出ない」という人物の打ち出した超
長期的政策に区民が理解を示すかどうか、杉並区民ではないものの少し不安になる。
とはいえ、現在さまざまな行政機関で「予算の使い切り」が行われている現在、目的
が減税でなくとも、予算で余った金を何かのために積み立てるということは別段悪い
ことではない。例えば、現在起きている雇用状況の悪化に対して就労支援や生活保護
を大規模に行うことになった際に積み立てた金を一部崩して使ってみたりすることも
していいのである。筆者は「減税自治体構想」について、目的を減税のみに固定する
ことなく、減税を含む還元処置を考慮に入れた「いざというときのための」積立金を
作る、という政策にすればいいのではないか、と考えた。
[PR]
by senshu-scop | 2009-02-17 21:46
参加者は乙幡、西山、中橋、河野(途中参加)の4名である。

場所は喫茶店さぼうる、時間は約一時間半である。


1、問題提起

論点1、中橋→福沢のいう「一身独立」とは何か、

ここで、乙幡により「それはまずもって身体の独立であろう」「病気にも依存せず、医者にも依存せず、そういう状態を福沢は独立と考えたのであろう」という意見が出された。

これに対して中橋は、「ちょいと違う」と述べたが、まだ問題提起の段であるので、一度おいとくこととした。

論点2、乙幡→285頁において「世間に圧制政府というのがあるが、これは政府が圧制するのではなく、人民が圧制を招くのだ」という部分を引用し、相手の出方をして、自己の行動の基準のすべてとするような態度は、既成事実にただ屈伏し、「成るようにしか成らん」として、どんな悪政にもめをつぶることである。
 では、政治社会にたいして目をつぶらず、自発的に政治社会に参与し、その行動の結果もうけ入れることのできるような主体性をどのようにしたら人々に持たせることができるだろうか。
 周りの状況、情勢に常に「流されていく」人々、これを政治的無関心層と定義し、
この無関心層を「教育」によって啓蒙していこうと福沢諭吉は追った得たのだろうと思う。
 しかし、そもそも周りの状況に流されやすい人々は存在するのである。それは教育によってどうこうできる問題ではない。教育はあくまで知識を与え、その使用法を教えることを主務のすべきものである。生活に苦労するようになれば、政治社会にさんよしていく態度は生まれる。
 ゆえに主体性は結局のところ教育等で喚起できるものではなく、社会状況の変化に依るのである。 


論点3、西山→94頁を引用し、ただ目的なく勉強するということはどのようなことであろうか、
         目的のない勉強など可能なのか。


以上3点の問題が提起された。

以下議論



中橋、私が思う「独立」は、先に言われたような主体的な責任である。しかし身体の独立というこ    とで考えるとそれは、医者や病気からの独立というより、病気すると精神が弱くなる、ゆえ    に思考も薄弱になり、独立できないということであろう。そもそも責任とはなにか。

乙幡、至極簡単なことで、「自分のケツは自分でふけ」、つまり自己の行動の結果を受け止める    ということだ。

中橋、確かにそうだ。自分のした行動のリスクは自分が負う。そういうことだ。しかしこれは精神    が弱っていてはできない。精神が弱いとリスクにつぶされてしまう。だから、健康じゃない と独立できないのだ。福沢は実学を重視した。これは独立心とつながる。もし哲学や思想    を学んでも迷惑はかけない。だが、実学は行動を伴うということである。だから福沢は      実学を重視したのだ。

西山、それが独立なのか。


中橋、少し説明不足であった。論が飛んでしまったかな。


乙幡、つまり、中橋君は自己の行動の責任を取るということをして独立心とするわけだ。


中橋、そうです。


乙幡、では、主体性について議論しよう。


乙幡、確かに病気になると精神薄弱となる人がいることは確かだろう。しかしこれは意志の問題    だ。身体的な不健康が必ず意志の弱さに通ずるとは考えにくい。


中橋、しかし、病気でいても意志が強いという人でも、もっと大きな病気にかかれば違ってくるだ    ろう。だから、責任を引き受けない可能性があるので健康でいよう、ということだ。そもそも    独立心、自立心と大人が子供に対してしゃべるときに言われるのが、人に頼るな、人に迷    惑かけるな、ということだ。しかし、人は人に頼らなければ、迷惑をかけなければ生きては    いけない。人に頼って生きているということは独立心を持たないで生きていない、というこ    とにはならない。生きる上で人に頼るな、迷惑かけるな、ということでなく。「責任をとる」と    いうことを通して、頼るな、迷惑をかけるな、ということである。


乙幡、自立心、独立心とは自分の行動を選択する際の信念というか、信仰というか、規範、まあ    そういったものを自分の中で納得して、体系づけて、理解した上で内部化するということ     だ。このような過程を経ないで、自己の外部に依存して選択を行う状態を自立心、独立心    がないというのだ。外部から与えられた信念、信仰、規範、法、なんでもいいが、それらう    を内部化して行動していくということが主体性なのである。


中橋、では自分とは何かというと、それは社会の中の自分ということである。つまり自分とは、社    会によって作られているのだ。社会に帰属しているのが自分なのだ。だから、自分とは社    会から離れられないのだ。だから、責任は社会に対しての責任なのだ。


西山、お前のいう社会とは何か。目に見える範囲のsocietyなのか。目に見えない人まで含め    た地域社会なのか。それとも一般的な「日本社会」などという場合の社会なのか。どの範    囲の社会なのか。


中橋、全部だ。というか、「世の中」というべきだろう。世界ともいえる。


乙幡、つまり、この世界一般ということか。自己が認識できる範囲ということか。


西山、まず今の文脈における社会とは何かをはっきりさせておかないと「自己は社会によって作    られる」ということはできないだろう。


中橋、認識できる範囲とか、そういうものではない。いわば宇宙全体だ。たとえば、インドなどで    子供が、日本製のお菓子を買ったら日本にも少なからず影響がある。しかし、人々はそ     れを認識できない。だから認識できる範囲というわけではない。


乙幡、思うに中橋君の中の社会とは、社会の中で自己が作られるという。これは自分を中心と     する経験と環境の総体であろう。それが社会であろう。


西山、そうすると、社会とはsocietyという意味での社会であろう。しかし中橋君の社会は経験     できないところまで含めている。


中橋、自己の認識できないことは世界にたくさんあるだろう経済活動のすべてを人は認識でき     ないのだから。


乙幡、まあそれは認識できないというより理解できないということであろう。


中橋、とにかく社会の中で自己が形成されて行くことはたしかであろう。


西山、というか「一身独立」について話していたのにどうしてこういう話になったのか。


※ここで河野さん合流


中橋、自分とは社会によって作られるのだ。自立とは、こういった社会に対して責任を負うという    ことだ。社会によって自分は作られ、その自分は社会に対して責任を負う。このような循     環があるのだ。だから、少し抽象的になるが社会が悪い方向へ進むことを止める責任が    あるのだ。


西山、それで社会というのは・・・。


中橋、人間の活動ということにしよう。


乙幡、つまり、人間交際ということか。


西山、それはsocietyだろう。


乙幡、そのsocietyとは何か。


西山、societyとは人と人が交わることで形成されるコミュニテイである。まずもって私は        society、地域、国、世界と同心円状に広がる範囲のどこをもって社会とするのか。


※ここで中橋、西山両人の押し問答が始まったので、乙幡が調停に入る。


乙幡、話を元に戻そう。私はそもそも主体性とは自己の経験というものを内部化して初めて生ま    れるものだとした。そこから責任も生まれるとした。そこから中橋君が「社会によって自己    は形成される」として反論めいたものを行った。そして西山君が社会とは何かという話が     あり、今の話となった。中橋君はまだ自分の論を最後まで述べていないようだ。中橋君の    論を聞く中で「社会」という言葉がどのような文脈で使われているかわかるだろう。


西山、自分を形成する社会とはなにかを問うたのだ。


中橋、なぜ、自己は社会に対して責任をもつかといえば、そもそも自分とは無だ。しかし社会と     交わったときに、自分は名前を付けられ、社会によって属性を与えられ、お金を社会から    与えられる。だから社会に対して責任を持つということだ。


乙幡、そこには自分も同意できる。人は生まれた瞬間から、何らかの社会のなかで生きてい      る。生まれた時から人間は完全ではありえないから、経験や環境の変化の中で自己を形    成していく、だから、人間の中には自己が重層的に存在している。家族の中の自己、大     学生としての自己、男としての自己という風に。この自己の一部に社会に対して責任を負    う自己もあるだろう。このような自己ははたしてどのようにして自覚されるだろうか。そし     て、どのような形で責任を果たしていくのだろうか。中橋君が社会といったときに想像する    ものは何か。


中橋、あいまいでわからない。


乙幡、私たちはここまで福沢諭吉の独立という考えから、それは主体性を備えることだと解釈し    て来た。そして、その主体性は社会に対して責任を持つことだという風になった。では、社    会に対して責任をもつとはどういうことかというところまで来た。


中橋、この社会に対して、責任をもつということは、できるだけ社会に関わっていこうとするこ    とだと思う。


西山、今の中橋君の話からすると自分の善いと思うことを通して社会にかかわっていこうとする    ことだ。それは世界レベルなのか、国家レベルなのか、地域レベルなのか。・・・・・まあこ    の問いの意味があるかはわからんが。


中橋、ではおいておこう。


中橋、社会によって自分が作られるのだから、絶対、社会と関わらないといけない。なぜ関わ     なければならないかといったら、そもそもかかわるように出来ている。社会によって自      分は作られているわけである。であるから社会にかかわらないということは無責任という     ことになるのだ。


乙幡、ここでいう社会に関わらない無責任な人というのは、引きこもりのような人々か。


中橋、そうだ、だが彼らのような引きこもりも社会問題となる。ホームレスも一見無責任のように    見えるが、社会の中で問題視されているということは、社会と彼らは関わっているという    ことだ。


西山、つまり、社会に関わっていこうとする意思が福沢諭吉のいう独立ということなのか。


中橋、そうだ。


西山、百姓連中は社会に関わろうとしていないとした。しかし彼らは必然的に社会にかかわっ     ているのだ。だから、独立が必要だとしたのか。


乙幡、しかし、『自伝』の中に出てきた百姓連中はちゃんと挨拶もし、経済活動も行い、年貢も納    めている。関わりというものを単なる「関係」としてみるなら、百姓連中は社会に関わ       っていることになるではないか。


西山、でも、それは社会のなかの関係を円滑に進めるようにしただけだ。そう考えると、すべて     の人が社会とかかわっているし、その意思もある。では福沢諭吉は何に憤っているの      か。


一同沈黙・・・・・・・。


中橋、やはり個人として関わらなければならないということだろう。百姓連中は社会の中の礼      儀としてかかわっているだけで、個人としてはかかわっていない。『自伝』に出てくる百姓    は、福沢の態度の変化に応じて自分の態度を決めている。これは福沢に百姓が依存し     ているということだ。


乙幡、つまり、外部に依存したまま社会に関わっているということか。


中橋、そういうことだ、それでは個人として関わるということにはならない。


乙幡、やはりこれは主体性という問題に集約できる。ではまず、福沢の考える個人像について     考えてみようか。これは外部に依存しないで自分の身によって決定を行う。ある意味行動    を選択し、行動し、その結果を担う主体を個人として定義できるかと思う。


西山、依存しない・・・・では福沢諭吉の依存しないという範囲はどれくらいのものなのか。依存     しない・・・・まったく依存しないということはできないのではないか。


乙幡、社会との関わりを持つという時点で何らかの外部への依存はあるわけだ・・・・。


中橋、いや、そもそも人間は社会に対して依存しているからこそ社会に関わらなければ         ならないということだ。


乙幡、となるとやはり社会にだけ責任をもって、自分に対しては責任を持たなくていいということ    になるのでは。


中橋、社会のイメージとしては、体育の時のピラミッドといっしょである。個人が全体に対して責    任を持たないと崩れてしまう。


乙幡、コミュニタリアニズムに近いね。となると福沢の個人像は、一般的な近代的個人像とは異    なるね。近代的個人像とは自分にかかわる事物の最終的な決定者を自分であると設定     し、この個人は平等であるとした。これに確かに福沢諭吉の個人像は近いように思える     が、個人は社会によって形成されるという考えも見られる。そもそも、一身がなぜ独立し     なければならないかといったら、一国独立するためなのであるから。


中橋、私の意見と違いはないのでは。


乙幡、そのとうりだ。ようは、当時西洋にあった一般的個人像とはことなるということだ。


中橋、ようは、意識の上での平等を言ったのか。


乙幡、そいうことだ。


中橋、自由や平等という考えはフランス革命において確立されたものだ。そのフランスの国旗は    自由、平等、博愛を示している。この博愛が愛国心であることをご存じか。

※補足・・・・中橋君へ・・・・近代的個人像は宗教改革とルネサンス、絶対主義王制などを経て                  確立されたもので、フランス革命によって確立されたと理解するの                  は論の飛躍であろう。


乙幡、まあそうだろうその時の国家は、プロレタリアートを完全に無視した形でブルジュア、貴     族、聖職者という関係でのみの国家であり、この第三階級以上での個人像である。我々    が考える。単なる人と人との結びつきとしての国家ではない。


中橋、なぜプロレタリアートが無視されたかといえば、教育されていなかったからだ。


乙幡、このときブルジュアジーたちが考えたのは、啓蒙されていない、品性のない、自分ことし     か考えないプロレタリアートに政治、国家、公共を任せることはできない。我々のような教    養あるエリートによって政治は行われるべきとしたのである。これをプロレタリアートは黙    認し、マルクスは怒ったわけであるが・・・・・まあ別の話だ。


西山、話がそれてしまっているのでまず福沢のいう「独立」とは何かを考えて骨組みを作り、そ     れを基礎にして各自意見を言い合えばいいのでは。


乙幡、では今まで中橋君と私とで話してきたから、西山君は福沢の「独立」についていかなるビ     ジョンを持っているのか。


西山、ではまず、福沢諭吉の時代を考えよう。この時代、封建制度が重要な位置を占めていた。封建制度というシステムによる社会を福沢は疑問に思っている。このバックグラウンドを元に、西洋流を習い、人々が主体的に作り出す社会というものを作ろうと思った。この理想を追求するために個人を作りださなきぃけないと思い、教育する。その中で「独立」ということを大事にしたと考えると、各個人により統治された社会というのと変わらないのではないか。


中橋、ようはデモクラシーか


河野、封建制度とデモクラシーは変わらない・・・・・。


西山、でも、どちらの国が強いいかといえば、各個人の特性を生かす各個人により統治された     社会のほうがいい。国の独立として考えると、封建制度と各個人による統治は変わらない    と思う。

中橋、デモクラシーの制度と封建制度とはどの点で変わらないというのか。


西山、国として、システムとして機能するという面で変わらないのだ。強い社会、つまり他国に負    けず劣らずというふうに考えると、まあ各自意見があるでしょう。福沢諭吉の目指したデモ    クラシーというのはあの当時の時代背景からすると、いいと思うが、現代に各個人の独立    を説くことはどうかということだ。


乙幡、各個人全員参加の統治と封建制度は変わらないと言ったが国家と絡めて考えると大きく    違っている。封建政の国家は頂上に王がいて、その下に領主、その下に領民とおり、こ     の三つの関係を国家としてとらえるものだ。それが封建制度である。つまり人と人との関    係のみによって統治が成り立っているのが封建制だ。これに対して、各個人が統治に参    加していくこととなるとこの統治では成り立たなくなり、領域で統治しなければならなくな     る。統治にかかわるメンバーを確定しなければならないのだ。


西山、私の説明不足であった。制度として、不満がない状態でシステムが回っていくという面を    独立の基準として考えるのだ。一国の独立として考えるのだ。各人が争う無政府状態は    独立とは呼べない。ですから、「独立」とは何ぞやというアプローチではなく、人として生き    ていくためのことを「独立」と呼ぶなら。デモクラシーも封建もたいして相違がない。だが、    しかし列強各国が奪い合いをしている。そもそも人は自由を求めない。地域社会コミュニ    テイーが大事なのだ。そうするとシステム自体が回らなくなってしまう。いわゆるデモクラ    シーの導入はチキンゲームへの参加である。


乙幡、確かに、国家システムがしっかり確立されていなければ、個人を確立することもできない    な。

西山、結局、福沢諭吉の意見はチキンゲームに参加しないと大変なことになるぞ、というもので    しかなかったのかなと。


中橋、つまり、外部からの恐怖に打ち勝つために福沢は「独立」を言ったわけか。


西山、これは普遍的ではないかな。


乙幡、確かに恐怖により人はまとまるだろう。この普遍的というのは、「よくある」程度の意味合     いのものだろう。

西山、福沢の言っている「独立」は競争に参加しようというものだ。


中橋、そのために独立せよと・・・・。

西山、だから学問せよ、ともね。このままじゃいかんぞと。


※ここから日清戦争の際の福沢諭吉の態度に話が及ぶ。
 福沢は、日本はペリー来航を契機として開国し、独立した。その日本に西方からロシアという脅威が迫っている。その脅威に対抗して日本の独立を保つためには、未だ華夷秩序の中にある朝鮮を独立させ、主権平等のチキンゲームに組み込むことが日本の独立を守るのだと考えたのだ。
一同、このような共通理解に至った。


乙幡、話を元に戻すと、福沢は国家の独立を起点として、個人の独立を考えた。まずは、国家     システムを個人主義的にしようとしたわけだ。


西山、私が言いたいことは、「独立」というものに価値を見出そうとするのではなく、ただ日本をチ    キンゲームに参加させようとしたのだと、さめてみることだ。


※ここで雑音がひどくなり、聞き取れなくなってしまった。



西山、一国をいかに独立させればいいかという説明書が『自伝』なのだと思う。


中橋、ではシステムに重点をおいて考えてみよう。そして、我々はなぜ勉強するのかを考えて     みよう。

西山、勉強というのは、システムの動かし方を学ぶのだ。結局、教育は労働力の育成だ。それ     以上でもそれ以下でもない。


中橋、そうなると、西山君は発展という価値観はないのか。秩序を維持すれば社会は回るとす     るなら、社会がダメになるということもないのではないか。


西山、別に、システムを維持するというところに価値は置いていない。大事だとも思わない。ただ    システムが回らなくなったら変える必要があるというだけだ。


中橋、それは発展ではないのか。


西山、システムが回っている限り現状維持でいい。回らなくなったら変える必要がある。その意    味で発展ということもあるだろう。


中橋、維持と発展・・・矛盾するのでは。


西山、ただ、当時のことを考えると西洋列強が押し寄せてくる中、日本は管理厳しい状況に置か    れている。その中で既存のシステムを壊すために福沢は「独立」を持ち出したわけだ。


中橋、外部からの圧力によって発展させなきゃならんということか・・・・。外部からの脅威によっ    てでしか発展しないということはないだろう。そもそも人間には向上心があるのだから。


乙幡、西山、そうだろう。


※ここから話は逸れ、学校教育の話となる。


西山、乙幡はともに学校教育は社会に出た時の、労働力の育成が学校の主務であるとした。つまり労働力の再生産だ。西山は欧米の場合、労働力の再生産といってもinnovertionを大事にするからレベルが高いとしていた。乙幡はあくまで大学はエリート教育に徹すべきだとした。これに対し、中橋君は学校教育は再生産でなく成長であるとした。

この後、河野さんに話がふられる。


河野、福沢は慣習や前提、常識を疑い、新しい事物に恐怖しない。ここに思考の柔軟性があ      り、このような心を独立心として喚起させようとしたのでは。


西山、つまり、前提条件を取り払って思考する。このような思考法を植え付けようとしたわけか。


乙幡、西洋の学問ということであろう。神学は神の存在証明から行った、つまり前提を証明しよ    うとしたわけだ。これは福沢のいうところの「数理学」のほうに通ずるだろう。


中橋、しかし、前提条件をすべて取り払うことは無理ではないだろうか。無から出発はできない    のではないか。


西山、確かにそうかもしれない。だが議論の中でその前提条件は薄まって、再構成されていくだ    ろう。

※これ以降、雑談に等しい内容であるので省略。





以上である。

あくまで議事録であるので、筆者の感想は省かせていただく。
ご意見、ご感想がある方も乙幡までお願いします。 

注:内容は編集のため多少加筆修正いたしました。悪しからず。
[PR]
by senshu-scop | 2009-02-16 02:19
a0117967_19234194.jpg
a0117967_19234817.jpg

(練馬区役所)


・区役所の屋上に菜園を
(小川議員の質問より)

 今回の小川議員の質問において、練馬区役所の屋上にある庭園についての提案があ
った。この庭園は「屋上緑化見本園・屋上庭園」(写真参照)といい、議会のある西棟
10階テラスに広がっている。そこでは、26の事業者の協力によって25の区画それぞれ
にさまざまな屋上緑化技術が用いられた屋上緑化がなされている。議員は、「ただ緑
化するのではなく、食べられる野菜などを植えれば愛着がわくのでは」として、この
屋上庭園をハーブ園にしてはどうか、という提案をしたのである。ヒートアイランド
対策などが目的で施されるビルの屋上緑化だが、ただ草花を植えるというだけではな
く、野菜などを育て、収穫したものを食べるという流れができれば広く認知され、愛
着もわくことだろう。区役所や区の施設などでまずは実験し、うまくいくようであれ
ば区内のほかのビルなどにも設置を呼びかけるということもできる。渋谷区でも、神
南分庁舎屋上などで屋上緑化がなされているようだが、この際野菜を作ってみてはど
うか。先例は練馬区の他、質問中でも触れられていた新宿区役所での「歌舞伎町の野
菜」もある。渋谷もうまくいけば、「しぶやの野菜」ができるのではと筆者は考える
のである。できた野菜を「しぶやフェスタ」などで売り出せば区のPRにもなるのでは
ないか。
a0117967_19235515.jpg

(「屋上緑化見本園・屋上庭園」)


・ネーミングライツの問題点
(山田議員の質問より)

 昨年10月に渋谷区議会を傍聴したとき、ネーミングライツの問題が取り上げられた。
そのとき筆者はこの政策を企業側・区側双方にいい効果を生むものとしてしか見るこ
とができなかったが、今回この質問を聞いて筆者の中に新たな問題点が浮上した。そ
れは「名称が定期的に変わる」ということである。ネーミングライツは企業と自治体
との契約で成り立っていて、その契約には期限がある。よって、契約企業が変わるか
契約がなくなれば施設の名称は変わったり、元の名前に戻ったりするのである。ネー
ミングライツはある程度知られた施設などで実施してこそ企業側にもインセンティブ
が生じるという話はすでにしたが、そうである以上、その施設はランドマークとして
の役割を持つものであることが多く、その施設の名前が定期的に変わる可能性がある
のはあまりいいとはいえないのではないだろうか。名称が変わるたびに全ての地図を
変えねばならず人や金がかかるし、全国に知られた施設はともかく本来の名称の認知
度が薄れてしまう施設が出てくることもありうるのである。
[PR]
by senshu-scop | 2009-02-15 19:25